こんにちは〜

今日は

、とっても気持ちがいい一日でした。
風が冷たいからか、空気が澄んでいて、なんかホッとした一日でした

さてさて、きょうもデボーションの分かち合いをしますね。
今日読んだ箇所は、創世記42章1〜5節です。
ファラオ(パロ)の夢どおり、飢饉が起こりました。
7年間の飢饉です。
で、ヤコブたちのいるカナンの地にも飢饉が襲ってきました。
そんな中、ヤコブは末っ子ベニヤミン以外の息子達に食料が備蓄されているエジプトに行って、食料を買ってくるように命じました。
このベニヤミンはヤコブの最愛の妻ラケルの息子です。
そしてラケルから生まれたもう一人の子どもがヨセフです。
ヤコブの心の中では、ヨセフは他の兄弟たちに殺されたのだろうという疑いがあったのかもしれません。
だからもう一人の子どもであるベニヤミンを一緒に行かせて、万が一殺されたりしたらという恐れから、兄弟達と一緒に行かせなかったのでしょう。
で、今回、飢饉ということにフォーカスを当てて、みことばを味わいました。
ヤコブたちにとっての飢饉、それは彼らがエジプトへ行くために神様が用いた手段ですね。
でも、それだけじゃないです。
デボーション雑誌Clayの中で、中川先生はこの「飢饉」について、このように解説をしています。
神の目から見た「飢饉の目的」について考えてみましょう。族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)は全員、「約束の地」に住みながら、飢饉を経験しています。
飢饉の目的は、彼らの信仰を試すためであり、彼らに、より良い故郷を求めさせるためです。
ヘブル11:14〜16には、このように書かれています。
「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
私たちクリスチャンは、霊的な「約束の地」に住んでいます。
しかし、そこにも「飢饉」が襲ってきます。
それは、私たちの振興を試し、私たちに天の故郷を求めされる力となります。
今回、神様の与えられた「飢饉」ということを思い巡らしていて、詩編のみことばを考えていました。
詩編105編18節です。
主は、人々が彼をいやしめて足枷(あしかせ)をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。
主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。この箇所、何回か紹介していますが、やはり、このみことばに行き着きます。
「火での練り清め」
ぼくたちに襲ってくる飢饉、それは神様の練り清めの為なんですね。
ぼくたちの故郷って、この地にはありません。
天の御国にあります。
だからクリスチャンにとって、死は終わりじゃなくて、帰郷なんです。
この天の御国に帰ると、ずっとイエス様の御傍にい続けます。
イエス様の愛の中で浸り続けるんです。
そして24時間365日、主を賛美し続けます。
そこは言葉では言い表せない深い喜びと主の平和で満ちたところです。
ぼくたちはそこ何れ帰るのです。
でも、ぼくたちはまだこの世に生かされています。
もちろん、今、この地にあって神の国がぼくたちの内にあります。
イエス様はルカ17章21節で、「神の国はあなたがたの間にある」って言われています。
でもね、このぼくたちが生きている間に起こる飢饉を通して、主はぼくたちを練り清め、将来、天の御国に帰郷した時のために造り替えておられるんです。
それは、人生の土台を自分の何かからイエス様に移行するようにです。
ぼくたちの経験や考え、努力、力、そのようなものを土台として生きて来ました。
生まれたときから、大人になるまでに、家庭で、学校で、社会で教育され、訓練され、そしてそれが当たり前となっています。
っていうよりも、ずっとアダムから引き継いだ罪の中で生まれ育ってきたから、ある意味、自然にそうなったのでしょうね。
ぼくね、今回みことばを通して「飢饉」ということを思い巡らしている中で、あぁ、そういう土台というか、足場というか、そういうものを崩すために飢饉を与えてくださっているんだなぁって思わされたんです。
飢饉を通して、自分の何かという土台がいかに当てにならないか、不安定か、役立たないかを徹底的に教えておられるんです。
そうやって飢饉を通して、ぼくたちがこれまで立ってきた土台、足場を崩され、イエス様という土台、足場へとシフトチェンジするために飢饉があり、その練り清めを通して、揺るがない土台、足場へと移されておられるんですね。
こうやって、日々、ぼくたちの何かによって歩んできた一つ一つを手放し、イエス様に明け渡し、十字架と結び合わされる歩みがなされていくんです。
そしてイエス様の似姿に変えられていき、天の御国に帰郷したとき、主の栄光を見るんです。
そうやって考えると、「飢饉」って深いですね。
そしてぼく自身、日々、いかに自分が頼りないか、足場として役に立たないか、教えられています。
こうやって日々の歩みの中で、飢饉を通して練り清められています。
今、この時も、イエス様と一つに結び合わされ、イエス様の中に憩えること、本当に感謝です。
今後のこととか、いろんな問題はあります。
ある意味、今、飢饉の中にいます。
でもね、そういう中で、振り回されたりせず、落ち着いていられること、とっても感謝だし、嬉しいんです。
日々、みことばを味わい、イエス様の中で安らげること、
イエス様と一つに結び合わされ、イエス様の内に座り、ぼくじゃなく、ぼくの内におられるイエス様が成してくださること、そこに信仰を置けること、本当に感謝です。
ぼくの内におられるイエス様、イエス様の全てはぼくのものであり、イエス様が十字架を通してなされれたことは全てぼくの内に実現したリアリティーです。
そして今、ぼくはイエス様の命で生かされています。
それが嬉しいんです。
自分でも不思議です。
飢饉の中で、落ち着いていられること。。。
以前なら、いろいろ計画を練り、行動していたなって思わされます。
でも、今はイエス様に信頼し、イエス様の時を待つ信仰、そしてぼくじゃなくてイエス様に成していただく信仰へと導かれています。
イエス様の内に全ての平和があります。
そのイエス様の内に常にいて、そこで休めること、飢饉の中で、イエス様は豊かな食卓を用意してくdさるお方。
イエス様がぼくの内におらえるから、今、この時も慰められ、信頼しています。
そして、何時の日か、天の御国に帰郷し、イエス様の豊かさを直接味わい、あのマリアのように、イエス様べったりの生活をするようになります。
その日を楽しみにしつつ、今、この地にあって、イエス様を更に味わい、楽しみます

イエス様の命の流れに身を任せながら。。。


ハレルヤ、主よ、感謝します
ではでは


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